聖 句
あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、
服装をととのえるような外面の飾りではなく、
かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という
朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。
これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
新約聖書 ペテロの第一の手紙 第3章3,4節
沿 革
本学は1890(M23)年、アメリカンバプテスト婦人宣教師ミス・リードらが、新坂通
(現知事公館の地)に家塾を開いたことに始まる。これを「尚絅女学会」と名づけ、やが
て1892(M25)年9月に普通科と聖書科が設けられ学校の体制がスタートした。
当時の生徒数は小学生を合わせわずか9人であった。同年11月には、ミス・ブゼルが
来仙し、いよいよ学校の形を整え、翌年、現高等学校敷地である中島丁21番地に移転
した。
1899(M32)年11月24日には私立学校令により正式に認可され、以来学校名を「私立
尚綗女学校」とし、この日をもって創立記念日としている。1900(M33)年には制服、そ
の翌々年には校章を制定した。また、1903(M36)年には、同窓会が発足した。
ミス・ジェッシーが第2代の校長に就任してまもなくジュニアカレッジ構想を発表、
1920(T9)年には、短期大学の母体となった高等科(英文科、家事科)が設置された。
このころの尚絅は自由で清新な気風があふれ、ハイカラな尚絅生は人々の憧れの的
であったといわれている。
その後、市内に女学校が増えたこともあって生徒数が激少する一方、世界的な経済
恐慌などによりミッション補助金の減額が続いたので、学校更生5ヵ年計画(財政上の
独立自給政策や定員増、新校舎建築など)が実行に移された。その努力が実り、
1940(S15)年には独立自給のクリスチャンスクールとなった。
太平洋戦争後は、新憲法に基づいた教育基本法が施行され、本学は学校名を「尚絅
女学校」と改正した。1950(S25)年には短期大学が、そして1960(S35)年に発表された
拡張15ヵ年計画による寄宿舎の建設や中山への短大建築等を経て、1989(H1)には
短大の名取キャンパスへの統合移転がなされ、大きな夢が実現しつつある。
青葉がくれに滴る雫が清き泉となり、やがてささやかな谷川となるように、わが学院の
はじまりは、いたってつつましやかなものであった。
この年の9月、米国バプテスト婦人伝道協会から派遣されて仙台に来ていた宣教師、
ミス・ファイフのもとへ、ミス・フィリップスが、つづいてミス・リードが来仙し力を合わせる
ことになったので、新坂通に家を借りた。のちの尚綗女学会の開校のところである。
宣教師たちは、この家に寄るべない信者の孫娘を引取ることになった。そして11月に
家族にクリスチャンとなったことを反対された娘が、宣教師を頼って来た。
明治23年(1890年) 青葉の雫
| 年号 |
年 |
西暦 |
事項 |
| 明治 |
17 |
1884 |
(ジョンス来仙) |
| 19 |
1886 |
(ミス・ブラウン来仙) |
| 20 |
1887 |
11月 ミス・ネリー・E・ファイフ来仙 |
| 23 |
1890 |
ミス・L・A・フィリップス来仙
9 月 ミス・ラビニア・ミード来仙
新坂通にクリスチャン・ホームを開く |
明治25年(1892年) 校名は尚絅に
校名は、初め論語にある「克己復礼」から「復礼」が考えられたが、体格のよいミス・リ
ードが、仙台弁でふくれ先生と呼ばれていたので、再考の結果中庸にある「詩曰、衣錦
尚絅、悪其文著也、故君子之道、的然而日亡」から「尚綗」が選ばれた。綗は絅にかわ
って当時使われていた文字である。
(中庸の語句直解、簡野道明著、中庸解義より)
詩に曰く、錦の衣(きもの)を著ては、其の上に麻の粗布の打掛を加えると、これは錦
の衣の文采模様が余りにハッキリと外に著はれるのを悪むからである。古人の心を用い
ることの奥床しくて文飾を事としないことは此の如くである。それ故に君子の学問の道は
譬へば絅を加へて衣るが如くに専ら巳の為めにして人に知られることを求めない。それ
であるから表面から見れば闇然と暗く韜んでゐるやうであるけれども、譬へば錦を衣る
が如くに美しい徳が内に充実して居るので自ら日日に其の章明となるのを見る。小人は
之に反して、専ら務めて人の為にし、止人に知られたいことを求めるが故に、初めは的
然と明らかに外に表はれるが根柢がないので日日に其の箔がはげて消え亡せるように
なる。
そして、照引、新約全書彼得前書(明治22年日本横濱印行、耶穌隆生1889年、米国聖
書会刊行 新約聖書ペテロ第1の手紙)の第三章三節四節の「爾曹の妝飾ハ髪を辮金
を掛また衣を着るが如き外面の妝飾に非ず、たゞ心の内の隠れたる人すなはち壊ること
なき柔和恬静なる霊を以って妝飾とすべし此霊の妝飾ハ神の前にて價貴きもの也」の意
味をもって学校の精神とし、これから美しい校風を発揮しようと考えられた。
明治25年(1892年) 尚綗女学会開校
明治25年8月、尚綗女学会が開校した。校舎は宣教師の家があてられた。この家は
もと伊達家の重臣田村氏の邸宅で維新後やまだ揆一氏の手に渡ったもので、500坪の
邸内のかぎ形の日本家屋の奥の2階は宣教師の居室に、入口に近い平屋は寄宿舎と
教室に、そのうちの2・3の部屋は寝室・教室・応接室・礼拝堂・裁縫室・居間の共用に
あてられた。
| 年号 |
年 |
西暦 |
事項 |
| 明治 |
25 |
1892 |
8 月 尚綗女学会開校式
創立者 ミス・ミード
11月 ミス・アンネー・サイレーナ・ブゼル来仙 |
宣教師によるバイブルクラス
明治25年8月、尚綗女学会が開校した。校舎は宣教師の家があてられた。この家は
尚絅の宣教師によるバイブルクラスについては、「ブゼル先生伝」(著者 栗原 基)の
なかに、ブゼル先生が仙台に着任してまもなく、当時二高生であった飯塚 啓(後の学習
院院長)の懇願で、英語による聖書研究会(バイブルクラス)を始めた(1893(M26)年)こ
とが記されている。
このバイブルクラスが特筆される所以は、この会が多感な二高生の心を捕え、彼ら自
身が「地上の天国」(テレストリアルパラダイス)と呼び、ここから多くの逸材が育っていっ
たからである。その中には、大正デモクラシーの旗手となった吉野 作蔵や内ヶ崎 作三
郎(後の衆議院副議長)、島地 雷夢、栗原 基らがいた。特に島地 雷夢は、当時仏教会
に名声を馳せていた本願寺派の重鎮、島地 黙雷師の長男であったので、その改宗は人
々を驚かせた。彼は後に教育者として活躍し、その教え子には、東京大学学長となった
矢内原 忠雄らがいる。
このバイブルクラスは、ミス・ブゼルが尚絅を去る時まで続けられた。その後は、初期の
バイブルクラスのような脚光を浴びることはなかったが、その時代時代に、尚絅で働いた
宣教師によって、尚絅以外の人々のためにもバイブルクラスが開かれ、現在もそれは継
続している。
ブゼル先生 60歳の頃
ブゼル記念文庫(図書館)の創設と校歌・校旗の制定
創立25周年を記念して今に歌いつがられている校歌ができた。
作詞 土井 晩翠、作曲 佐々木 英である。そして校旗がつくられた。
また、ミス・ブゼル在職25年を記念してブゼル記念文庫が誕生 した。我が校図書館の
はじまりである。この文庫には英文学や 基督教関係の洋書を中心に1929冊の本が備えら
れ、以来図書室 は文庫を中核として蔵書を増し昭和24年に独立した尚絅女学院 中央図
書館となり、現在 ブゼル記念文庫は大学図書館におさめられている。
当時は在校生119名、教員20名、うち宣教師2名、この4半世 紀の間に、我が校の基礎
と、独特な校風が確立した。
短期大学の開学と新制服の制定
4月短期大学が開学した。伝統ある英語科、家政科の2科で教科課程は充実しキリスト
教主義大学としての特色をもち、一般教養科目の充実にも力を入れたことから、東北地方
全体から学生が集まった。
それに合わせて、寄宿舎木花寮が60年前に開校したゆかりの建物に開設された。10月
に短大開学式と記念文化祭が行われている。
また終戦後の衣料不足から生徒の服装はまちまちとなっていったが、この年ジェッシー
院長のデザインで現在の中学校・高等学校の制服が制定された。冬のダブルの打合せの
ボタンに梅の花を残し、スカートのバックルに尚絅のSを配したデザインで、校章の地色は
高校はスクールカラーのブルーに、中学校は赤、短大は銀色に大学を配したものとなった。
この夏新体育館と寄宿舎が、ヘルシンキオリンピック出場選手団の合宿練習に提供された。
展示されている資料
尚絅女学院七十年史 開架 093/S
尚絅女学院100年史 開架 093/S
尚絅女学院の100年 開架 093/S
ブゼル先生伝 書庫 372.8/K/b
〒981-1295 宮城県名取市ゆりが丘4丁目10番1号 Tel 022-381-3440 Fax 022-381-3441